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「ハイエクの進化論に関する考察」

 

経済学史学会大会1999報告要旨です。正式な原稿にするまで、引用はお控えください。

 

橋本努(北海道大学)

hasimoto@econ.hokudai.ac.jp

 

【はじめに】

 ハイエクの進化論がもつ妥当性は、具体的政策の指針を提供するような理論レベルにはない。むしろ文明論として考える必要がある。文明論は、具体的な制度設計を行なうに際して、フロネーシス(賢慮)を与えるという役割を引き受ける。具体的な制度変更は、傲慢な理性(設計主義)によってなされてはならず、自生的秩序に対するフロネーシスを用いてなされなければならない。ハイエクの進化論は、政策「内容」に関する理論的基準というよりも、むしろ政策「運営」に関する賢慮の指針を提供する。

 それゆえ、ハイエクは自由主義者ではなく社会民主主義者であるという批判は、一面において適切である。ハイエクは、政策に関する基準を進化の過程に委ねるので、自由主義的な政策原理を絶対的・普遍的に擁護するような基準を提出しないからである。では、ハイエクは進化論によって、いかなる観点から自由主義を擁護するのか。

 

【線形的で自生的な発展】

 ダーウィン以降の進化論の知見に照らしてハイエクの知見が古いという批判の仕方は、それほど有効ではない。ハイエク自身、進化論はダーウィン以前からの知見であるとして、単純に自然科学を真似るわけではないことを断っている。(ヘルダー、フンボルト、サヴィニー、バークへの参照。)ヘルダー系の進化論は、言語や法というものが線形的かつ自生的に進化してきたと考える点に特徴がある。

 もっともハイエクは、歴史というものがすべて自生的に発展を遂げてきたとは考えない。社会は、放っておけば自生的に発展するというのではない。歴史は作為的な営みに満ちている。自生的なものとは、歴史の中のごく一部にすぎないが、それは文明の存続にとって重要な部分であり、われわれは秩序の自生性を理解してこれを防衛しなければならない、というのがハイエクの思想の根幹にある。

 

【進化の倫理@:過去形の啓蒙】

 ハイエクは、進化の過程が今後、必ず普遍的かつ安定的なものへと線形的に進むとは主張しない。ハイエクの進化論は、未来の経路よりもむしろ、現在までに獲得した制度形態が、線形的かつ一定の普遍性をもつことを、秩序の正統化根拠として利用する。ハイエクによれば、文明とは、学習された行動ルールの伝統であり、それは決して発明されたものではないし、また、実際に行為している個人はたいてい、その機能を十分には理解していない。人は、知的だから新しい行動ルールを採用したのではない。むしろ新しい行動ルールをたまたま採用したからこそ知的になったのである。道徳の伝統は、われわれの理性を凌駕するものである。文明は、われわれの設計や意図によって生じたのではない。精神とは、進化のよきガイドではなく、むしろその産物である。

 このようにハイエクは、「進化した獲得物がもつ秩序根拠に対して認識を深めるべし」という過去形の啓蒙を企てる。われわれは市場というものを、進化の過程で、各人の模倣的学習の意図せざる結果として獲得したのであり、その獲得物はすでに一定の普遍的妥当性をもっているし、また人間の理性によってその全体を変革することはできないのだから、これを保持するしか生きる道はない。これが市場を正統化するための進化論的論拠となる。なぜなら、「進化によって獲得されたもの」という観点から理解しようとする営みは、それ自体が実践的に、市場秩序全体の正統性と安定性を提供するからである。

 これに対して、歴史プロセス論は、市場全体の正統化論を提供することはない。例えば市場秩序というものを、進化しつつあるというプロセスの観点や、どのようなプロセスを経て進化したのかという観点から考察するならば、正統化根拠は提供されないだろう。市場秩序の根源的変容可能性だとか、歴史において市場が果たした悪しき作用といったものが浮かび上がり、かえって市場の正統化根拠を批判する論理を提供することになろう。

 

【進化の倫理A:現在進行形の啓蒙】

 自生的秩序は、第一には、「進化によって獲得されたもの」という過去の相において理解され、正統化される。しかしその場合、ハイエクは現在進行形の相において、次のような三つの議論を補充している、と解釈することができる。

 第一に、「『偉大な社会』におけるこの進化は、ますます勢力を増すので止められない」という運命性の認識である。この点においてハイエクの個人主義は、運命をも自己支配するような自律的人格を否定する。

 第二に、「この進化を滋養する政策が望ましい」という自生化主義(と私が呼ぶもの)の提唱である。ただしこの点だけを独立して提唱すると、立憲的設計主義に近づく。

 第三に、社会主義という社会発展方向をどう捉えるか、という問題がある。ハイエクによれば、社会主義思想は、われわれの先祖返りへの欲求(プリミティヴな本能)に根差しており、進化に逆行するものである。向かうべき社会の進化は、そうした本能を抑圧して成立する「偉大な社会(GreatSociety)」である。したがって、プリミティヴな本能に依拠した政策は、除去されなければならない。設計主義によって自生的なものが犠牲にならないようにすることこそ、重要な政策規範である(negativism)。(もっとも、プリミティヴな本能にもとづく各種の中間団体は、国家に頼らない自生的社会の安定的形成に資する場合には、これを維持すべきであるということになる。つまり本能は、抑圧されるのではなく無害化されるべきだということになる。)

 

【文明の理解】

 ここで「文化」と「文明」を次のように区別してみよう。「文化」とは、人間の創造的・精神的・理性的な営為の集積であり、これに対して「文明」とは、文化を支える基盤である。このように区別するならば、ハイエクの進化論は、直接には「文明」の進化を問題にしていることになる。

 行為(目的-手段の連関)のレベルでは、人間は自生的・無意識的に振る舞うのではない。人々は通常、行為に際して断片化された意味連関の中で、目的-手段の関係を整序していく。その場合、行為の意味連関をさらにいっそう明確に理解するためには、およそ二つの方向がある。一つは、各人の究極的価値を想定して、これに準拠しながら個人の意味連関を整序していく方向である。もう一つは、高次の抽象的な「秩序」というものを想定して、そこから制度(ルールや慣習)の意味連関を解明していく方向である。ハイエクの進化論は、後者の意味連関を探究するプログラムを提供する。

 ハイエク的な人間観に立てば、各人は自分の究極的価値など認識しなくてもよいし、また制度に関する明晰な理解に達しなくてもよい。必要なのは、完全に理解できない制度でも、それに服従することが文明を自生的に進化させるかもしれないということを知ることである。(「無知の知性」という啓蒙。)

 しかしその場合、制度に服従する行為は、単なる伝統的行為とは異なる。伝統的行為は、これまでなされてきたからという理由でそれに従う。これに対して自生的秩序に服する行為は、つねに秩序の成功・発展に資するように、制度の内側からフロネーシスを働かせる。

 このフロネーシスを「超越なき実践」と捉えるならば、学問的認識にできることは何もないだろう。しかしフロネーシスの中に「秩序の意味連関を問題化する理性」を含めるならば、「洗練された自生化主義」に至ることができる。その場合の学問の意義は、文明の進化に対する洞察を提供することにある。

 (もっともハイエクは、文明の発展の指標として、人口増加率を挙げているが、文明化された国では人口増加率は減少する傾向にある。この点についてハイエクの説明力は弱い。)

 

【進化の諸相】

 ハイエクの議論を補足して、進化のレベルを次のように整理してみよう。

 

(1)行動パタン(ex.朝八時に出勤する)→意識的な淘汰と模倣的学習。特定の環境への適応。

(2)ルールや慣習(ex.交通規則、商慣行)→半-意識的な群淘汰と自生的展開。社会的環境の形成と変更。

(3)秩序(ex.言語、法、市場)→(無-意識的な群淘汰と)自生的展開。

a) 客観的知識の自律的発展(ポパーのいう世界3)

b) 暗黙的に共有された制度的知識の発展(「世界4」と私が呼ぶもの)

c) 抽象化された理念(「抽象的なものの優位」)

 

 ハイエクが考える自生的な進化は、秩序を意図的に変更しなくても、各人が自分の行動パタンを変更することによって生じうる。例えば言語の進化である。行動パタンのレベルでは、選択による淘汰が作用する。しかし秩序のレベルでは、それが淘汰されずに自己展開することが、自生的秩序の理念に適っている。

 行為パタンと秩序の間に、「ルール」や「慣習(convention)」というものを位置づけることができる。ルールや慣習は、秩序全体の進化に逆行しないように修正・変更されるべきであるが、しかし他方でわれわれは、どのようなルールや慣習が秩序にとって合理的なのか分からないので、一見不合理のように見えても、既存のものに従うことの方が合理的である、ということをわきまえている。ルールや慣習は、その効果や機能を十分に理解して採用できるものではなく、「それを採用したことがたまたま秩序の発展に寄与した」という具合に、事後的にのみ理解可能なものとなる。ルールや慣習は、各人の事前の選択的合理性では十分に評価できず、集合的かつ半意識的な選択淘汰に晒されてはじめて十分に評価できるものであり、またそれらは、秩序の進化に寄与するように修正・変更されるならば、それ自体が自生的に展開した、と見ることもできる。

 

【自生的秩序の正統性】

 自生的に進化したものがすべて善いものだというわけではない。ハイエクによれば、例えば「ゴキブリ」は、進化の過程で生き残ったものであるが、善いものではない。自生的なものがそれ自体で正統化の対象になるのは、言語や法や市場といった「秩序」レベルのものである。

 ここで正統性とは、合法的正統性とか伝統的正統性などのレベルではなく、「圧倒的な文明の流れを食い止めることはできない」という運命的勢力を基本にしている。つまり、進化過程における文明の存続可能性に関わるレベルが問題となる。

 ハイエクは、秩序の自生的展開について語るが、自生的な力を失った社会(滅びゆく文明)の崩壊や、自生的なカオス化については語らない。また、秩序の自生的な展開というものが、ルールや慣習を多元化する可能性についても語らない。さらに、共生や住み分けといった議論もない。ハイエクは「秩序」の反対概念である「混乱(disorder)」を、単なる「障害(disorder)」とみる。

 「構造物全体の秩序が外部の力によって混乱させられる場合に、その構造物を構成する要素は、各要素の動きが結果としてこの秩序を回復することになるような、行動の規則性ないしルールに従う能力を保持している。」

 つまりハイエクの関心は、進化的獲得物としての秩序のなかから、これを保持して正統化するための特徴を見いだすことに置かれている。「開かれた社会の唯一の共通価値は、達成されるべき具体的目標ではなく、ある抽象的な秩序の不断の維持を保証する共通の行動ルールだけである。」自生的な秩序化作用に対するこうした考察は、その作用に対する象徴的な正統化を生み出すことに資するだろう。

 ハイエクが市場の秩序化作用とその安定性を哲学的に基礎づけることの利点は、例えば、国家の理念に依拠する保守的な秩序政策(日の丸・君が代)を不必要なものとして、これを破棄しうることにある。市場秩序の進化論的・哲学的正統化は、こうした共同体主義に対抗するための秩序理念を提供する点で、自由主義の擁護論となりうる。